建築基準法 × 脳科学
換気量はなぜ0.5回/h以上なのか——閉め切った部屋が集中力を奪うという話のふしぎな根拠
会議室にずっといると頭が働かなくなる気がする。それ、気のせいじゃないかもしれない。——でも、その話には「結論が割れている研究」も混ざっています。
実は日本の法律では、住宅の換気量を「0.5回/h以上」と決めています。「建築基準法施行令第20条の8」という法律です。でも「なぜ0.5回/hなの?」と聞かれて答えられる人はほとんどいません。
この記事では、毎日何気なく使っている「換気」を入口にして、法律の数字の裏に隠された、人間の脳のクセを解き明かします。
図解:CO2濃度と法律の換気基準
CO2が上がるほどスコアは下がる、という研究結果。でも法律が見ているのは別の物質。この2階建ての構造を、まず押さえておきたい。
法律で決まっている「換気の量」
日本の建築基準法では、住宅の換気量をこう決めています。
建築基準法第28条の2・施行令第20条の8(機械換気設備の換気回数)
・住宅の居室、寄宿舎の寝室など:0.5回/h以上
・その他の居室(事務所、店舗など):0.3回/h以上
0.5回/hというのは、1時間あたりに部屋の空気の半分を入れ替えるということ。これを24時間連続で動かすのが、いわゆる24時間換気システムです。この規定は2003年7月1日に施行された、建築基準法の中では比較的新しいルールです。
▸ この規定の本当の目的
この規定が生まれた理由は、はっきりしています。内装の建材や家具から発散するホルムアルデヒドやクロルピリホスを、室内にとどめないこと。条文をどう読んでも、「集中力」という言葉は出てきません。この法律が見ているのは化学物質で、CO2でも集中力でもない。ここから脳科学の話になります。
CO2と頭の働き、最初の発見
2012年、アメリカでちょっと話題になった研究があります。Satishらは、ジョンソン宇宙センターで22人の参加者を対象に、CO2濃度を600・1000・2500ppmと変化させたチャンバーの中で、複雑な意思決定能力をテストしました(Satish et al., 2012, Environmental Health Perspectives)。
CO2が日常レベルまで上がるだけで、複雑な意思決定スコアが下がる。
結果は驚くものでした。CO2が1000ppmに上がると意思決定スコアが中程度低下し、2500ppmまで上がると9項目のうち7項目で大きく低下しました。1000ppmというのは、人がそこそこ集まった会議室で普通に到達する濃度です。
2016年には、ハーバード大学のAllenらが追加の検証をしています。24人のオフィスワーカーを対象に、丸一日働く中でCO2濃度を変えたところ、950ppm程度でもスコアの有意な低下が見られ、1400ppmではさらに差が大きくなりました(Allen et al., 2016, Environmental Health Perspectives)。ここまでは、査読を経た2つの研究が示す結果です。
「すぐ集中力が落ちる」という通説の崩れ方
ここで一つ、正直に訂正しておきたい話があります。「CO2が上がると即、頭が働かなくなる」という単純な図式は、その後の研究でそのまま支持されたわけではありません。
スコアが下がった研究
Satish(2012)・Allen(2016)。対象は22〜24人と小規模。950〜2500ppm程度で意思決定スコアが低下した。
低下が見られなかった研究
Rodeheffer(2018)。潜水艦クルー想定で15000ppmでもスコア低下なし。長期的な生理的順応の可能性を指摘。
研究者たちは、長時間高CO2環境で働く人には生理的な慣れが生じる可能性を指摘しています。つまり、誰でも同じように影響を受けるとは限りません。
2020年のDuらによる系統的レビューも、似たことを言っています。同じ認知テストでも、研究ごとに結果が逆になることがある。一方で、はっきり見えてきた傾向もあります。単純作業(タイピングや計算など)への影響はほとんど確認されないけど、複雑な意思決定のような高度な認知タスクは、CO2の影響を受けやすい(Du et al., 2020, Indoor Air)。
1000ppmという数字は、どこから来たのか
ここで、よく出てくる「CO2は1000ppm以下に」という基準の話もしておきたいと思います。これは建築物環境衛生管理基準(いわゆるビル管法)が定める数字で、建築基準法の0.5回/hとは別の制度です。
この1000ppmという基準、もともとは19世紀ドイツの衛生学者Pettenkoferが提唱したものです。当時の発想は「CO2そのものが有害だから」ではなく、CO2の濃度が体臭や汗など人体由来の汚染物質全体の「総合指標」として使えるから、というものでした。1902年には学校教室のCO2濃度が1000ppmを超えると問題があるという指摘も出ています。
つまり、この数字はもともと集中力やCO2の毒性のために決まったわけではありません。「空気の汚れ具合を測る目安」として100年以上前に決まった数字が、今になってSatishらの研究と結果的に重なっているというのが正確な順番です。建築基準法の0.5回/hも、ビル管法の1000ppmも、もともとの目的は別々にあります。ここを「最初から集中力のために設計された基準」と読んでしまうと、これは筆者の解釈どころか単純な間違いになります。先に正直に言っておきたいところです。
法律の数字を「脳の視点」で読むと見えてくること
それでも、方向としては重なる部分があります。換気をしっかりやれば、化学物質も、CO2も、まとめて薄まります。法律が守ろうとしていたものの結果として、集中力に関わる環境も一緒に整っていた。そう見ることはできます。これは筆者の解釈です。
こういう視点で法律を読むと、建築基準法は難しいルール集ではなく、人間の行動や失敗のパターンを集めた「人間観察の教科書」のように見えてきます。「なぜこの数字なの?」と問い続けることが、法律の本質を理解する一番の近道です。
まとめ:換気の数字は、化学物質対策から生まれた
この記事のポイント
・換気回数0.5回/h(住宅)・0.3回/h(その他の居室)は、シックハウス対策が目的で、CO2や集中力を直接の基準にしていない
・Satish(2012)・Allen(2016)はCO2上昇による意思決定スコアの低下を報告。Rodeheffer(2018)は超高濃度でも低下が見られず、研究間で結論が割れている
・ビル管法のCO2基準1000ppmは、Pettenkoferが提唱した「室内汚染の総合指標」が由来で、もともと集中力のための数字ではない
・法律の数字と脳科学の知見のつながりは筆者による解釈であり、事実と解釈を区別して読むことが大切
0.5回/hという数字は、条文を読むだけでは集中力の話にはつながりません。つながるとしたら、その外側にある複数の知識を、こちらが組み合わせて読んだ結果です。その組み合わせが「確立した事実」なのか「まだ割れている研究」なのかを区別する責任は、書く側にも読む側にもあります。
参考・根拠資料
・建築基準法第28条の2(居室内における化学物質の発散に対する衛生上の措置)
・建築基準法施行令第20条の7(建築材料についてのホルムアルデヒドに関する技術的基準)
・建築基準法施行令第20条の8(換気設備についてのホルムアルデヒドに関する技術的基準)
・建築物における衛生的環境の確保に関する法律(建築物環境衛生管理基準)/厚生労働省
・Satish, U., Mendell, M. J., Shekhar, K., Hotchi, T., Sullivan, D., Streufert, S., & Fisk, W. J.(2012)”Is CO2 an indoor pollutant? Direct effects of low-to-moderate CO2 concentrations on human decision-making performance.” Environmental Health Perspectives, 120(12), 1671-1677.(対象:成人22人)
・Allen, J. G., MacNaughton, P., Satish, U., Santanam, S., Vallarino, J., & Spengler, J. D.(2016)”Associations of cognitive function scores with carbon dioxide, ventilation, and volatile organic compound exposures in office workers.” Environmental Health Perspectives, 124(6), 805-812.(対象:オフィスワーカー24人)
・Rodeheffer, C. D., Chabal, S., Clarke, J. M., & Fothergill, D. M.(2018)”Acute exposure to low-to-moderate carbon dioxide levels and submariner decision making.” Aerospace Medicine and Human Performance, 89(6), 520-525.
・Du, B., Tandoc, M. C., Mack, M. L., & Siegel, J. A.(2020)”Indoor CO2 concentrations and cognitive function: A critical review.” Indoor Air, 30(6), 1067-1082.
・本記事における法律と心理学・脳科学の接続は、著者による学際的解釈を含みます。