関所が壊れている。「仕事がない建築士」が向き合うべき本当の話

「仕事がない建築士」って、その人の努力が足りないからじゃないかもしれません。
一級建築士という資格は、国がつくった「関所」なんです。
その関所が今、内側から崩れ始めている、という話をします。

ある確認申請の思い出

僕、確認検査機関にいたころ、北側斜線の解釈をめぐって、申請者の方とけっこう長く揉めたことがあるんですよ。図面だけ見れば問題なさそうだったんですけど、隣地との高低差の扱いで意見が割れてしまって。何度も電話でやり取りして、正直、途中からはお互い意地になっていたと思います。最後はそのときの行政の取扱いに合わせて処理したんですけど。

あとで知ったんですけど、別の役所ではまったく違う判断がされていたらしいんです。同じ条文、同じ図面なのに、判断する場所によって「正解」が変わる。あれだけ時間をかけて詰めた話が、場所が違えば通っていたかもしれない。そう知ったとき、正直、脱力しました。

でも同時に、面白いなとも思ったんですよね。建築基準法という決まりは、ただの技術基準の集まりじゃないんだ、と。

それって「誰が判断していいか」を決める仕組みでもあるんです。

条文を解釈する人、確認する人、資格を出す人。この一連の「関所」を国が握っているから、建物を建てるという行為全体がコントロールされているんですよね。

「仕事がない建築士」という話を聞くたびに、僕はこの記憶に戻るんです。営業がうまいかどうか、人脈があるかどうかの問題として片づけられがちなんですけど、たぶんもっと大きな話だと思っていて。関所そのものが、今、内側から少しずつこわれ始めているんじゃないか、と。

関所が役に立っていた時代

一級建築士という資格、戦後の日本の仕組みの中で、はっきりした役割を果たしてきました。国が試験という関所をつくって、そこを通った人だけに設計や工事監理を許可する。通れる人の数は限られていたから、資格はそのまま貴重さになって、収入につながっていたわけです。

この関所が機能していた理由、大きく二つあると思っています。

一つは、関所の中と外で、知っていることの差が大きかったこと

法律の読み方、構造計算のやり方、役所との交渉のコツって、関所を通った人しか持っていない知識だったんですよね。施主さんは自分では判断できないから、専門家に頼るしかない。

もう一つは、関所が一つしかなかったこと

行政ごとに解釈が多少違っても、最後に判断を下すのは、常に国や自治体という、たった一つの公的な関所だったんです。

この二つがそろっていたから、「資格さえ取れば食べていける」っていう、戦後らしいキャリアの形が成り立っていたんだと思います。

関所が、二つとも崩れている

で、今起きているのは、この二つが同時にくずれ始めているということなんですよね。

これまで

✓ 関所の中と外で、知識の差が大きい
✓ 判断する場所は国・役所だけ
✓ 資格 = そのまま仕事につながる

これから

✓ 検索・AIで知識の差が縮む
✓ 関所の脇に、近道ができる
✓ 資格 + 発信する力 が問われる

まず、関所の中と外の差が、インターネットとAIによって急に縮んでいます。法律の条文はもちろん、その解釈とか、役所ごとの取扱いまで、検索すればある程度たどり着けるようになった。AIに図面をチェックさせれば、基本的な違反くらいは指摘してくれます。かつて関所の内側の人間しか知らなかったことに、外からでも手が届くようになったんです。

そしてもう一つ、関所の脇に近道ができています。

たとえば4号特例が縮小されて、今まで簡易に済んでいたところにも細かい判断が求められるようになりました。これ、規制強化に見えるんですけど、見方を変えると、判断する場所が国だけじゃなくて、現場の一人ひとりに分かれていく動きでもあるんですよね。関所の窓口が、じわじわ増えているようなものです。

同時に、SNSやブログを通じて、資格を持たない人や、組織に属さない人が、自分の考えを発信して、自分なりの解釈を示せる時代になりました。国の正式な関所を通らなくても、「この人は詳しそうだ」と思わせる発信を続ければ、施主さんはその人を頼ってしまう。関所そのものを避けて、脇道を歩けるようになった、ということなんです。

関所を通ったかどうかより、脇道を知っているかどうかで頼られる場面が、増えているんですよ。

関所を通ったこと自体の値打ちが、下がっているんです。

これ、建築士業界だけの話じゃないと思うんですよね。他の資格の世界でも、国が知識を独り占めすることで専門職の値打ちを守る、という仕組み全体が、あちこちで同時に揺らいでいる。今起きているのは、その一つの表れにすぎないんです。

「仕事がない」は、時代の変わり目に起きること

こう考え直すと、「仕事がない建築士」という状態の意味も、変わってきますよね。

これって、資格を取る努力を怠ったからじゃないんです。むしろ逆で、関所を通る努力をきちんとしたのに、その関所の値打ちが下がっていく速さの方が上回った、というだけの話なんですよ。

その人の能力の問題じゃなくて、たまたま生きている時代のタイミングの問題なんです。

この変わり目に起きているのは、「関所を通った人」と「脇道を歩ける人」が、少しずつ入れ替わっていく現象だと思っています。昔は資格さえあれば、関所の内側にいるというだけで仕事があった。でも今は、内側にいても、それを言葉にして外に伝えられなければ、いないのと同じ扱いになってしまうんですよね。

国という関所の値打ちが下がった分だけ、自分の脇道を作れるかどうか――知っていることを整理して人に届けられるかどうかが、これまで以上に問われている、ということなんです。

自分の話に戻ります

確認検査機関で見た、あの北側斜線のやり取りを、今振り返るとこう思うんです。あのとき本当に値打ちがあったのは、僕が「正しい答え」を知っていたことじゃなくて、役所ごとに解釈が分かれる理由を、仕組みごと理解していたことだったんですよね。答えそのものは、今なら検索すればある程度たどり着けます。でも「なぜその答えになるのか」という理解だけは、そう簡単には代わりが利かないんです。

もし今、「仕事がない」と感じているなら、それは努力が足りなかったからじゃなくて、通ってきた関所の値打ちが、時代とともに下がっているだけかもしれません。

だとしたら向き合うべきは、次に何をやるかという手段の話の前に、関所の中で積み重ねてきた「なぜそうなるのか」という理解を、外の人にも伝わる言葉に変えられているかどうか、だと思うんです。

それができていれば、関所がこわれていくことは、恐れることじゃなくて、自分の値打ちを試すきっかけになります。